2011年10月17日月曜日

夢三十七夜「母の旅立」



平成23年8月15日午後。妻の手をそっと握りしめながら母はたった一人で旅立って行った。まるで眠るように静かに息をひきとった。本当に人生のネジが切れてしまったかの様にコトリと息を止めててしまった。








松浦キミ。98歳三ヶ月であった。「わし、百まで生きる」ほっぺを触りながら「こんなにツルツルだ」口癖であった。

惚けそして大腿骨骨頭骨折。車いすと介護ベットの生活であった。

花畑に囲まれ自家用野菜を作り、近所の友とお茶を飲み、自由気侭な一人暮らしを送っていた。

五年前、熱中症にて救急搬送された後、私ども夫婦と三人暮らしになった。介護認定、要介護3。

リハビリの為の週二回のデイサービス通所が始った。言語回復、歩行訓練、入浴、食事、リクレーションゲーム。いつもご機嫌の帰宅であった。

自宅では相撲観戦、巨人戦プロ野球、大リーグNYの松井の大のフアンであった。歩行補助機での行動であったがなに不自由なく晩年を娘と共に暮らしていた。










妻の母親であるキミは大正二年四月二十八日、函館市郊外の蛾眉野の里に生まれた。最初の連れ合いは結婚後間もなく上顎癌を患い亡くなった。子宝に恵まれずにいたキミは縁があり六男一女の家庭である松浦家へ後添えとして入った。やっと子に恵まれ、妻ゆき子が誕生した。末っ子のゆき子は両親兄弟からはそれはそれは可愛がられたという。

痴呆が進むにつれ母の症状は安定しない。食事、トイレ、入浴したことをすぐに忘れてしまうのだ。その都度「お母さん、お母さん」と呼ぶのである。若い頃の薬の後遺症で聴力はほとんど失っている。呼ぶ時は大声である。もちろん返事が聞こえないので娘が自分の視界に入るまで大声で呼び続けるのである。

仕事も持っている妻は毎日が母との戦いである。要介護4の母と同じ目線で真剣にやり合っている。



妻をおも区別つかずに娘呼ぶ

母のわがまま心いずこに


母の日を今は忘れて我が母は、

まっちゃロールを黙って食べる



雪融けに窓の外見て一人言う

大根の種、わし蒔きに行く



ももとせに近き母は若き日の

田畑耕す事だけ語る



わし明日、家に帰ると母の言う

言葉に戸惑い妻涙ぐむ


お父さんお世話になって有難う

今日休みならわしを送って


母は自ら望んだ事ではないが痴呆が進んで来ると段々我が侭になって来る。とにかく自分の侭ならない時はいつも自分の家に帰ると言うのである。


「おばあちゃん、かあさん。帰ってどうするの? ごはん作れるの? お風呂どうするの?」母は元気な頃の自分の姿を見ているのだろう。


毎日、毎晩。四六時中家人は母と戦っている。いわゆるあしらう事の出来ない妻は要介護4の痴呆の母親と同じ目線で戦っているのである。


とある夜、妻は母親とまた、真剣に議論しているのだ。相手はまともな言葉になっていないのに。「もういいだろう。おばあちゃんを殺めるなよ」


私はそう言った時、私自身が涙が溢れてきた。






夜に朝に歳老いし母介護する


      妻の戦い涙溢れん






母が亡くなる三日前、墓参りの後ショートステイ先へ見舞に行って来た。妻は一二時間ほど母の傍にいると言う。時間があるので私は近くの水源地公園へ散歩に出かけてきた。公園では家族連れがB.B.Qを楽しんでいる。小川では子供達が水遊びをしている。







私には感じ取れなかったけれど妻はどうも母親の感じがいつもと違うという。何が違うのか私には解らなかった。施設に頼んで翌日曜日に退所手続きをしている。


翌日自宅へ帰って来た母はごく普段通りの母であった。一緒に夕ご飯を食べ、デザートも美味しい美味しいと食べていた。


翌朝妻は介護タクシーを呼び、掛かり付けの病院の予約を取り診察してもらう。軽い肺炎を起こしているので二三日の入院との診断である。


病室に入り栄養補給のための点滴をしてもらった。血管が細くなっていてなかなか点滴の針が入らない。若い看護師さんは一生懸命に血管を探している。


「あのー、母が呼吸をしてない様なんですけど.......」


あっけなく母は旅立って行った。


まるで命の螺子が切れてしまった様に母は亡くなった。




ネジ式の ネジの切れたる 人形の 
   
   コトコトコトリ 静かに止まり


望月の 月に照らされ 星となる 

    明るき夜空の 星のひとつに



蝋燭の 揺れる炎の 優しさに 

  我が身を供して (たれ) 捧げん



彼岸へは 悟り開きて 渡らんと 

    娘の手握り 一人旅立つ




平成23年8月15日妻の戦いは昨日に終わった